東や南じゃダメなの?上皇の身辺警護を務めた「北面武士」が北向きに奉公した理由 (1/3ページ)

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東や南じゃダメなの?上皇の身辺警護を務めた「北面武士」が北向きに奉公した理由

歴史の授業で「北面武士(ほくめんのぶし)」という言葉を記憶している人もいるかと思います。

上皇(じょうこう。太上天皇の略称で、皇位を譲られた天皇陛下のこと)の身辺警護を務めた武士団で、白河法皇(しらかわ ほうおう)が平安後期の康和年間(西暦1099~1104年)ごろに創設したと言われています。

北面武士を創設した白河法皇、Wikipediaより。

そのネーミングは彼らが院御所(いんのごしょ。上皇や法皇のお住まい)の北側(北面)に詰めていたことに由来するのですが、なぜ北側だったのでしょうか。南や東ではいけなかったのでしょうか。

その理由には諸説ありますが、一つのヒントが鎌倉時代に登場します。

「西に向いて奉公する」西面武士

後に承久の乱を惹き起こした後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)は、鎌倉幕府との決戦に備えてか、従来の北面武士に加えて西面武士(さいめんのぶし)を新設。頼朝公の死後、文弱に流れがちな鎌倉幕府を尻目に、若い子弟を集めて尚武に邁進したそうです。

西面武士を創設した後鳥羽上皇、Wikipediaより。

ところで、北面の次に西面と定めたのは単なる偶然や気まぐれではなく、この順番でなくてはなりませんでした。

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