東京都府中市矢崎の住宅地の片隅にある「三千人塚」を調べてみた (2/4ページ)

心に残る家族葬

そして江戸時代は、郷土の名士によって、全国各地で地誌が編まれるようになっていたものの、主に明治の文明開化以降に始まった考古学的調査がなされていなかったことから、地域に散見する多くの「塚」「遺跡」などにまつわる言い伝えが、正しく精査されることがなかった。それゆえ、この三千人塚に関する、幕末期の斎藤月岑(げっしん)による『江戸名所図会』(1834年)内の分倍河原合戦云々の話は、当時板碑を調べた人物が、刻まれていた文字の「三年」を、「三千」と見誤ったことから始まったものではないかと、考えられている。

■ではどうやって三千人塚は生み出された?

今日のように、火葬にして骨を骨壷に納め、それを墓に埋め、「目印」となる墓石を立てて、定期的に遺族がお参りに行くという、死者の「取り扱い」方は、江戸期に、キリスト教信仰を禁じるための寺請(てらうけ)制度ができてから始まったものである。
それに伴い、いつしか人々の間では、死者は必ず自分の家代々の寺によって手厚い供養がなされ、「墓」という「場所」に収まり、子々孫々に、墓参りや年忌供養などの宗教儀礼を通して、いつまでも「覚えてもらって」いなければならないと考えられるようになっていったという。
その結果、そうした処遇が叶わない身元不明の人で、自殺や心中、急病や飢餓などによる行き倒れ、災害や事故による不慮の死を遂げた人々、果てには江戸時代以前の、土地にまつわる有名無名の合戦などで亡くなった人々は、この世に強い執着・執念や、特定の誰かに対する恨み・憎しみなどを残したまま死んだとされ、魂の安楽が得られないまま、命が尽きた「場所」を永遠にさまよい続ける。果ては生きている人々に「祟り」などの災いをもたらしたり、目の前に現れて、自分の無念の死に対する辛さや悲しみを訴えたり、きちんとした埋葬、そして僧侶による供養を求めるものだと捉えられるようになった。府中の三千人塚の言い伝えも、そのような人々の考え方によって「生み出されたもの」だと考えられる。

■言葉では説明できない非科学的な何かの魅力

科学万能の現代にあっても、我々はどうしても、「死者のゆくえ」を気にしてしまう。そして、「祟りがある」「霊が出る」とされる「場所」を、恐れながらも、そこへあえて近寄ろうとすることもある。

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