池山隆寛が今明かす秘話「恩師・野村監督とプロ野球黄金時代」

日刊大衆

画像はイメージです
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 1990年代のセ・リーグで黄金時代を築いたヤクルトスワローズ。その中心選手として活躍したのが、池山隆寛氏だ。今回は、球史に残るスタープレーヤーでもあった池山氏に、当時の球界の思い出を語ってもらった。まずは、弱小だったヤクルトを日本一4回という強豪チームへとのし上げた名将·野村克也氏について。池山氏にとって、どんな存在だったのだろう。

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いけやま・たかひろ/1965年兵庫県生まれ。1983年、ヤクルトに入団すると、走攻守三拍子そろった遊撃手として活躍。豪快なフルスイングから“ブンブン丸”の愛称で呼ばれ、野村監督の下、日本一に4度輝いた「ヤクルト黄金期」を支えた。2002年の引退後は、楽天やヤクルトでコーチを歴任。

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池山隆寛(以下、池山)  野村さんが監督に就任したのは、僕の7年目のシーズンでした。ユマキャンプでの初めてのミーティング。監督はいったい、どんな野球の話をするんだろうと思っていたら、第一声が「一番大切なことはジジュンである」。初めて聞く言葉で、もう意味が分からないわけです。

 すると、監督は「耳順(じじゅん)」という字を大きく書いて、「論語の中に『六十にして耳順(みみしたが)う』という言葉がある。孔子は60歳のとき、誰の言葉でも素直に受け入れられるようになったそうだ。だから君たちも私の話をよく聞くように」と、説明してくれた。

 それがすべての始まりで、そこから「仕事の三大要素とは」みたいな話に続いていきました。それまでのミーティングといえば、サインプレーや作戦の話でしたから驚きましたね。

 プロ野球選手は辞めてからのほうが人生長い! だから社会人としての常識を身につけるべきだと、監督はよく話していました。

「監督がホワイトボードに板書したことを書き写すように」と、あらかじめ言われていたので、ミーティングではとにかく必死でメモを取りました。最近、当時使っていたノートを引っ張り出してみたんですが、数えてみたらA4判のノートで500ページ近くもありましたよ(笑)。

 当時はプライドもあって素直に聞けない部分もありましたけど、今思えば、すごくタメになった。“野村の考え”は、現役を辞めて指導者になってから生きてきましたね。

 19年の現役生活のうち9年間、野村監督の下で野球をやりましたから、影響を受けているのは間違いない。野球論や知識は、大きな財産になっています。

 だから引退した後、楽天の監督に就任することになった野村さんから、“バッティングコーチをやってみないか”と声をかけてもらったときは、うれしかったですよ。野村さんの野球は、ひと言で言えば「準備野球」。ミーティングとデータを駆使して、“どうすれば勝てるのか”をチームで徹底することでした。それまでの野球観は一変しましたね。

 ただ、バッティングに関しては、野村監督から「ブンブン丸を封印しろ」と直接、言われたことはなかった。マスコミには言っていたみたいなんで、あれは監督なりのリップサービスだったんじゃないかな(笑)。

■「野村さんは直接怒らない、その代わり聞こえるような大きな声でボヤく」

 野村さんは、僕や広澤(克実)さんを直接怒らないんですよ。その代わり、「ああいうバッティングをマネしたらあかんぞ」なんて、他の選手に向かって、僕らに聞こえるような大きな声でボヤく(笑)。間接的にグチグチ言われるわけです。でも振り返ってみると、野村さんなりに、僕らに気を遣ってくれていたのかもしれませんね。 

 逆に、面と向かって褒められたのもたった一度だけ。97年の巨人戦で、9回表に決勝ホームランを打ったことがあったんですが、翌日、練習を終えたとき、野村監督に「おい」と声をかけられて、「昨日はよう打ったな」とひと言。褒められたのは結局、これが最初で最後でした。

--野村ヤクルトの最大のライバルとして立ちはだかったのは、長嶋茂雄監督率いる巨人軍だ。93年から97年まで、ヤクルトと巨人が交互に優勝。90年代のセ·リーグの中心はこの2球団だった。

池山 当時は、ことあるごとに野村監督から「巨人に勝たないと優勝はない」と言われていました。 野村監督と長嶋監督とのライバル関係もあったし、選手のほうも“負けたくない”って、かなり意識していた。ミーティングで綿密に作戦を練って、「どうにかして巨人に勝とう」とチーム一丸となって燃えていましたね。

 ただ、対戦のときは毎回、斎藤(雅樹)さん、槙原(寛己)さん、桑田(真澄)の先発三本柱が投げてくる。いつも、この3人との対決だから、「またかよ、勘弁してくれよ!」って感じでしたね(笑)。

 巨人の三本柱は、本当にすごかった。斎藤さんなんて、全部真っすぐに見えるけど、中には同じところから曲がってくるボールがあるんですから。20勝していたときなんて、まったく手が出なかった。

 三本柱の中では、桑田が一番やりやすかったかな。コントロールが抜群によかったので、逆に狙い通りに打てたんです。ただ、シュートを覚えてからは、簡単には打たせてくれなくなりましたけどね。

 監督だった長嶋さんとは、あまり接点はなかったんですが、毎年秋に開催されていた東西対抗では、ご一緒していました。そのとき、「(長嶋氏の長男である)一茂君と同い年なんです」とあいさつすると、「そうか、一茂と同じなのか~」と答えてくれる。結局、この同じやりとりを5年間繰り返しました(笑)。

 ヤクルトで一緒だった一茂は、ほんと練習しなかったですね(笑)。僕らも練習嫌いでしたけど、それ以上。パワーはすごかったんですよ。でも、ウエイトトレーニングで、ダンベルを1回上げると「もう、いいや」って帰っちゃう。

 僕とはグローブを作ってくれる職人さんが一緒だったこともあって、「こんないいグラブなのに、なんで捕れないの?」なんて、からかっていましたね。

 現在発売中の『週刊大衆』7月8日号では続けて池山隆寛のインタビューを掲載している。

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