プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「船木誠勝」“最後のサムライ”あまりに純粋な行動原理 (2/2ページ)

週刊実話



 なお、この試合をもっていったん引退を宣言した船木は、その後に俳優業への転身を宣言している。

 「これについては一部のファンから『スター気取りだ』と反発の声も上がりましたが、船木本人にしてみればプロレスや格闘技の世界でやりたいことがなくなったから、次は俳優をやってみたいということだったようです」(同)

 この“やりたいことをやるだけ”という精神は、実は船木の行動に一貫したものでもある。

 そもそもパンクラス自体が、何か特別な理念や理想があって独自のスタイルに行き着いたというよりは、もっと単純に“真剣勝負をしてみたい”“興行的な意味で他のU系団体と差別化するには、そこまでやるしかない”との考えであったと、のちに自ら語っている。

 実はヒクソン戦にしても、船木自らが強く望んで実現したものではない。

 「船木vsヒクソンの行われた興行『コロシアム2000』は、ヒクソンの試合開催権を持っていた会社がひと儲けを狙って企画したもの。東京ドームを会場にして地上波中継を実現するためには、どうしても名前のある相手が必要で、そのため船木が選ばれたというのが実際のところです」(パンクラス関係者)

 そんな話を持ちかけられて、ヒクソンとならやってみたいということで戦って敗れた。それ以上でも以下でもない。
「青森の田舎から中卒でプロレス入りした船木は、よく言えば純粋。言い換えると、さほど思慮深いタイプではない。初期のパンクラスにおける“ハイブリッド・レスリング”というような理念も、船木自身が発したわけではなく、取り巻きの編集者やライター連中が、船木とパンクラスを持ち上げるために創出したものです」(前出・プロレスライター)

 UWF時代、ボブ・バックランド戦でコーナーポストからミサイルキックを放って反則負けとされた際には、「UWFスタイルへの反発」などとも言われたが、これも特に深い意図はなく、単にやれるタイミングだからやってみただけということではなかったか。

 「仮に船木がプライドの高い性格だったなら、桜庭和志との試合(’07年)なんて受けませんよ。船木は引退からの復帰戦。片や桜庭は衰えつつあったとはいえ現役選手。U系の後輩相手にそんな不利な条件の試合を受けた理由としては、やっぱり純粋にやってみたかったという部分が大きかったのでしょう」(同)

 そうした視点から船木を見直したときには、大仁田戦をはじめとする近年の純プロレスでの戦いについても、また違った趣を感じられるだろう。

船木誠勝
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PROFILE●1969年3月13日、青森県弘前市出身。身長181㎝、体重90㎏。
得意技/掌打、ハイブリッド・ブラスター、クロスヒールホールド。
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