煽石(天然のコークス)を発見し、その利用方法を生み出した村上久三郎 (2/4ページ)

心に残る家族葬



煽石とは、地下で形成された石炭の層(炭層(たんそう))に、後から火山活動によって溶岩が接近、或いは貫入し、その熱で付近の石炭が変質した無煙炭の一種で、天然のコークス(骸炭(がいたん))である。燃えにくいが、火が付着するとパチパチと走るので、炭鉱現場では「ハシリ」「オコリ」と呼ばれていた。

■煽石のおかげで生活が豊かになった

久三郎のおかげで、それまで役に立たないものと見なされていたものが有益なものとなり、販路が次第に広がっていき、周囲の村の人々の暮らしも豊かになっていった。そうした中、久三郎は質素な暮らしを続け、時に寝食を忘れるほど、煽石採集に傾注した。そして39歳の時、嘉麻(かま)郡上三緒(かみみお)村(現・福岡県飯塚市)でも煽石を発見し、採掘した。そして若松港に移り住み、煽石売捌所(うりさばきじょ)を設けた。当時ここで、6万トンの煽石が諸国に積み出されて行ったという。

こうした功績から久三郎は明治5(1872)年に、賞金を受けた。更に五人扶持(ぶち)を受ける代わりに、煽石専売の許可を受けた。それから7年後、久三郎は62歳で亡くなった。若松恵比須神社内に残る石碑は、彼の没後10年を祈念して、建てられたものと考えられる。

■村上久三郎についてわかっていることは非常に少ない

村上久三郎の一生については、それだけしかわかっていない。明治期以降、筑豊炭田の興隆を背景に、石炭輸送の中継点として栄えた折尾(おりお。現・北九州市八幡西区折尾)に明治35(1902)年、久三郎の顕彰碑が建てられたという話も伝えられているが、それは若松恵比須神社内の石碑と混同されたものなのか。それとも、若松恵比須神社内の石碑同様、どこかに移されたのか。今現在、折尾における久三郎にまつわる石碑の所在は不明である。

また、経済学者の今野孝は1970年代末期に、村上久三郎の足跡を辿るため、若松恵比須神社内の石碑を精査し、久三郎が葬られたという、神社からほど近い場所にある西念寺(さいえんじ)を訪れた。そこで過去帳に記された、明治12(1879)年9月8日、「村上和三郎」と「伊吉父」という名前を発見した。しかし「和三郎」が「久三郎」のことなのか、判然としない。
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