伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[前編]

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伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[前編]

地獄太夫とは 1890_月岡芳年_新形三十六怪撰 地獄太夫悟道の図

月岡芳年 新形三十六怪撰 “地獄太夫悟道の図”  ウィキペディアより

“地獄太夫”は室町時代の遊里に存在したと言われる伝説の遊女です。武家の娘で幼名が乙星と言われています。しかしあるとき山中で賊に襲われ、そのあまりの美しさ故に泉州堺(大阪府堺市)の遊里に売られてしまったのです。

乙星は現世でこのような辱めを受けるのは、前世で戒行(戒律を守り修行すること)を怠ったためだと考え、自らを“地獄”と名付け、衣服には地獄変相の図をほどこし、心では仏名を唱え、風流な唄を歌ったとされています。

地獄太夫と一休禅師の出会い 歌川国芳 江都錦今様国尽 “一休禅師 地獄太夫”“地雷也_越中越後”(部分)

歌川国芳 江都錦今様国尽 “一休禅師 ”“地雷也_越中越後”(部分) 出典:国立国会図書館

いわゆる“一休さん”としても馴染み深い“一休宗純禅師”、なんと地獄太夫と出会っていたという話が、一休禅師の死から約190年後に編集された『一休関東咄』に記されています。

一休禅師が堺に赴いた時に、地獄太夫が姿を見かけ歌を送りました。
「山居せば深山の奥に住めよかし ここは浮世のさかい近きに」
(出家した僧ならば山の奥にて修行すべきものでしょう。ここは俗世界の遊里(地獄)の近くなんですよ)

すると一休禅師は、
「一休が身をば身ほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ」
(私は自分を高潔な僧侶だどとは思っていないから、俗世界だろうが山奥だろうが同じこと)と返したのです。

河鍋暁斎 《地獄太夫と一休》

河鍋暁斎 《地獄太夫と一休》 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥 イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection, London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

こんな歌を詠むとはどんな遊女だろうと、一休禅師は遊里を訪れ、その遊女があの名高い地獄太夫と知りました。

「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」(その評判は聞いてはいたが会ってみると実に大した遊女だ)と讃えると、地獄太夫は「しにくる人のおちざるはなし」(こんな所に来るもので私に惚れないものはいない)と返しました。これは(死んだもので地獄に落ちないものはいない)ともとれます。

江戸時代後期に活躍した、浮世絵師であり戯作者であった山東京伝が刊行した『本朝酔菩提全伝』にも二人の物語が記されています。

一休が芸妓達と一緒に踊っていると、芸妓達が骸骨の姿に変わりながらも踊り続けています。それに驚いた地獄太夫が、一休から“生きている人間も死んだ人間も表裏一体で同じものなのだ”と説法を受け、地獄太夫は終に悟りを得る、と。

いずれにせよ、これを機会に二人は師弟関係を結ぶことになるのです。このときまさに地獄太夫は菩薩(悟りを目指す人)となったのです。

(中編につづく)

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