関ヶ原の戦いで一番の手柄を上げた!でもマイナーな「可児才蔵」の武勇伝を紹介! (1/3ページ)
慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦い。決着は1日で決したものの、誰が一番の武功をあげたのか気になるものです。
そこで調べてみると驚くことに国持大名でも結構な碌をもらう武将でもなく、福島正則に仕えた一兵卒の身分であった可児才蔵(かにさいぞう)であることがわかりました。
可児才蔵/Wikipediaより
しかし、可児才蔵と言われても誰?って思う方がほとんどかと思います。
ということで今回は、可児才蔵とは何者なのかを有名なエピソードを交えて紹介します。
粋なパフォーマンスでついたあだ名は「笹の才蔵」才蔵は天文23年(1554)に生まれます。はじめ才蔵は斎藤龍興に仕えますが、斎藤家の滅亡と共に織田家の家臣柴田勝家や明智光秀などに仕えます。
転々と主君を変えてきた才蔵は天正10年(1582)に起きた甲州征伐では森長可に仕え、16の首級をあげます。しかし、16も持つことは出来ないので3つだけ長可のもとへ持って行き、残りは口に笹を含ませ目印としました。
森長可/Wikipediaより
もちろん、3つしか持って来ていないので疑われるのですが、笹のことを伝えると長可は才蔵の武勇を褒めたたえました。