服部半蔵が忍者だったのは初代だけ!実は二代目以降は武士だった

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服部半蔵が忍者だったのは初代だけ!実は二代目以降は武士だった

服部半蔵と聞くと誰もが忍者のイメージが頭をよぎるかと思います。しかし実際、忍者だったのは初代半蔵だけで二代目半蔵の服部正成(はっとりまさなり)以降は意外なことに武士でした。

しかし正成は「伊賀忍者の頭領」だったことが一般的に知られているので、忍者としてのイメージが強いのは事実です。

服部正成/Wikipediaより

今回は服部半蔵の二代目で一番の知名度を誇る正成に焦点をあて、イメージとは全く違う正成をご紹介します。

槍が得意でついたあだ名は「鬼半蔵」

正成は初代半蔵である服部保長の5男として生まれます。

やがて服部家の当主となり、半蔵の名を世襲されたころには、槍を手に取って元亀元年(1570)の姉川の戦いで一番槍の功績を挙げました。

元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでも一番槍の功績を挙げますが、武田信玄に大敗北を喫した徳川軍の士気が下がっていた時に正成は単騎で浜松城外へ飛び出し、敵と一騎打ちを行います。

見事討ち取った正成は首を持って城内に帰ってきたので、味方は正成の勇姿に鼓舞されることになりました。

この功績も相まってか正成は「鬼半蔵」のあだ名がつけられることになります。

正成は伊賀越えでは忍者を使わなかった!?

また、天正10年(1582)徳川家康を窮地から救った「伊賀越え」では正成の名が広く知れ渡ることになります。

しかし、正成は伊賀忍者を使ったわけではなく伊賀の地侍を家康の警護に使いました。この時に伊賀越えに協力してくれた伊賀の地侍200人は後に伊賀同心として正成に仕えることになりました。

徳川家康像/Wikipediaより

なぜ正成=忍者のイメージがついたのか

ここまで大名だった二代目半蔵正成の活躍を紹介しましたが、どうして正成が忍者とされてきたのかというと小田原征伐にありました。

小田原征伐後、正成は父である保長が伊賀忍者の出である縁から、伊賀忍者を統率する立場となります。

武士であるのに忍者を統率する立場として実質的に「伊賀忍者の頭領」となったことにより、必然と正成=忍者として扱われるようになっていきました。

北斎漫画より忍者/Wikipediaより

最後に

多くの影響もあり、服部半蔵正成は忍者として描かれることが多いです。

しかし実際には槍の方が得意だったので、武士半蔵として改めて生涯を追ってみるときっと面白いこと間違いなしです。この記事を通して新たなイメージで二代目半蔵、正成を見てもらえる機会になれたらと思っております。

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