すぐ先延ばししちゃう人必見!徳川家康のブレーン「林羅山」のごもっともな教訓に耳が痛い… (2/3ページ)
「はい!よろしくお願いいします!」さっそく張り切る得庵少年(イメージ)
そんな教訓に心を打たれた得庵少年は、さっそく羅山による年越しオールナイトマンツーマン講座を受けることとなったそうです。
徳川家康のブレーンとして活躍した林羅山を一晩じゅう独り占めしてしまうなんて、至れり尽くせりですね。
……ところで、お互いに年末年始の予定は大丈夫だったのでしょうか。
儒学者として大成するも……さて、羅山の期待に応えて勉学に励んだ得庵は、後に羅山と共に京都の儒家・藤原惺窩(ふじわらの せいか)の門下で頭角を現し、世の人々から「惺窩門四天王」に数えられるほどの博識を評されました。
※四天王のメンバーは林羅山・堀杏庵(ほり きょうあん)・那波活所(なば かっしょ)・松永尺五(まつなが しゃくご)とも言われ、得庵はこの松永尺五とポジション的に互角だったようです。
ところで呼び名の「菅得庵」ですが、当時の儒学者界では名前を中国風にすることが流行っており、元の名字である菅原を略して菅と名乗りました。また、成人男子が本名(諱・忌み名)の代わりに名乗る字(あざな)も子徳(しとく)と称し、こちらも中国風にしています。
そんな得庵ですが、歳を重ねるにつれ謙虚さを忘れてしまったようで、48歳を迎えた寛永五1628年6月14日。自分の弟子である安田安昌(やすだ やすまさorあんしょう)に斬り殺されてしまいました。