国内では数少ない経済産業省から伝統工芸品として指定されている仏壇について (2/3ページ)

心に残る家族葬

これは強みである反面、注文に応じてどこの産地のものも模して制作可能という技術でもある。そのため、彦根固有の様式というものは確立しなかった。ただし、細工が精巧であること、耐久力に優れていることは、紛れもなく彦根仏壇の強みと言えるだろう。

■独自の形で発展してきた川辺仏壇

川辺町は鹿児島県の南西部にあり、薩摩半島のほぼ中央部、山に囲まれた盆地である。川辺仏壇の多くは、小型で家庭向きのものがほとんどを占め、さらに「タンス型」や「ガマ型」と呼ばれる独自の形もある。昨今の核家族化に伴う小型化と思われそうだがそうではない。慶長2年(1597)時の藩主、島津義弘は浄土真宗(一向宗)禁制の断を下した。しかし、取り締まりが強化されるほど民衆の進行も強固なものになっていった。厳しい弾圧と拷問にもめげず、信者たちは仏像を背負い、経典を隠し持ち、山間に集まった。いわゆる隠れ念仏として隠し持つには小型の仏壇は便利だったのである。さらに、目くらましに、見かけはタンス、扉を開けると仏壇が隠されているという仕掛けのものが多くなっていった。鹿児島では洞窟のことをガマといい、そこから「タンス型」「ガマ型」仏壇というのが作られるようになっていった。その後、明治9年(1876)、明治政府が信仰自由の令達を出したことで、戦国時代から300余年にわたり禁制を保ってきた川辺仏壇はようやく陽の目を見ることになった。

■紆余曲折を経て、今でも残る飯山仏壇

長野市より30キロ、北信地域の北端に位置する酷寒の地、飯山の名産が飯山仏壇である。飯山仏壇は、漆器産業の一つとして仏壇産業が栄えたとみられている。この地に伝わる地域誌、下水内郡誌(しもみのちぐんし)にも、意気軒昂な筆遣いを見せている、と評価されている。しかし、飯山仏壇の歴史は、愛宕町を舞台にいくつかの口伝を残して途絶えている。その口伝の一つに、武田信玄の軍に従って飯山に来たあるものが、戦火から逃げるために寺院裏に隠れ住み、やがて愛宕町に移り、彫刻、描画を試みたというものがある。その子孫が京都から仏壇の雛形を取り寄せ、仏壇を作り始めたという。しかし、明治の廃仏毀釈によりこの地区の仏教も下火になった。

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