クォーター侍!赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家・孟子の末裔がいた! (1/4ページ)

Japaaan

クォーター侍!赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家・孟子の末裔がいた!

亡き主君のために決死の仇討を遂げた赤穂浪士。そんな赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家、孟子の末裔がいました。

しかも赤穂事件の際には吉良上野介を討ち取る程の勇猛さも備えていました。

今回は異国の血が混じったクォーター赤穂浪士、武林唯七(たけばやしただしち)についてまとめてみたいと思います。

 三代目市川八百蔵扮する武林唯七/Wikipediaより

祖父は帰化人

唯七の祖父は戦国時代に起きた文禄・慶長の役で明軍捕虜となった孟二寛(もうじかん)でした。孟二寛は日本に連行されると毛利家、次いで浅野家に明で学んだ医学を持って仕えます。

また、武士の身分に取り立てられると自身の故郷であった浙江省杭州「武林」(ぶりん)にちなんで「武林治庵」(たけばやしじあん)と名を変えました。

その後は渡辺姓を持つ妻を迎え入れ、渡辺治庵と名乗りました。

言いたいことはすぐ言っちゃう血気盛んな唯七

治庵の子である渡辺式重(わたなべのりしげ)の次男に生まれた唯七は兄が渡辺家を継いだので、分家をすることになります。

その時唯七は祖父が使用していた武林姓を使用したので「武林唯七」となり、武林家を再興することになりました。

元禄14年(1701)主君の浅野内匠頭長矩が刀傷沙汰を起こして切腹した時、唯七は江戸にいましたがすぐに赤穂藩へ向かい大石内蔵助に誓文を送り江戸に戻ります。

「クォーター侍!赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家・孟子の末裔がいた!」のページです。デイリーニュースオンラインは、武林唯七赤穂浪士江戸時代中国カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧