歴代総理の胆力「近衛文麿」(3)天皇いわくの近衛の「弱さ」 (1/2ページ)

アサ芸プラス

歴代総理の胆力「近衛文麿」(3)天皇いわくの近衛の「弱さ」

「近衛は弱いね」と、A級戦犯として東京裁判の軍事法廷に引き出される直前に服毒による自死を図った近衛文麿に対し、報告を受けた昭和天皇はポツリと言った。

 その遺書(昭和20年12月15日に記した2男宛)の一部には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが、「今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う」として、軍事法廷に引き出される屈辱感、無念が露わにされている。

 そうした天皇いわくの近衛の「弱さ」は、政権運営で随所に見ることができる。すなわち、軍部に抗する姿勢、構えは見せるものの結局は次々に押し切られ、あげくこの国に戦争の道を走らせることになった。結果、若い頃、社会主義に影響を受け、本質的にはリベラル、穏健派、戦争を望まずの体質だったが、まったく裏腹な政権を余儀なくされたということだった。言うなら、第3次にわたった政権は、すべからくが「失態史」と言ってよかったのである。

 第1次近衛内閣は、「二・二六事件」関係者の大赦でスタートした。ここでは早くも、一方で陸軍皇道派との関係が忖度された。また、そうした中で、日中戦争の発端となる「盧溝橋事件」が勃発すると、これを機に一気に「失態史」をスタートさせるのだった。

 盧溝橋事件では、事件の「不拡大と現地解決」を閣議決定したまではよかったが、一方で現地が和平工作をやっているにも拘わらず、記者会見で「中国に対しては断固とした対応をする」と発言、閣内からも真意をいぶかる声が出たものだった。また、その後の「支那(上海)事変」勃発直後の閣議でも、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍不抜」をスローガンに掲げ、結果、南京を占領するや極めて高姿勢に「国民政府を相手とせず」との声明を出し、結局は対中和平の道を閉ざしてしまうといった具合である。

 こうした“判断ミス”は、第2次内閣でも同様だった。「日中戦争」の解決は米国の了解が不可欠と時の松岡洋右外相に日米交渉に入らせたもののうまくいかず、その松岡が一方で「日独伊三国同盟」を推進したことにより、今度は米国をより刺激する形となったのだった。ここでは、近衛は「聞き上手」とよく言われたが、人の話に耳は傾けてもトップリーダーとしての閣僚らへの目配り、自らの情報分析能力も欠けていたことを示している。

「歴代総理の胆力「近衛文麿」(3)天皇いわくの近衛の「弱さ」」のページです。デイリーニュースオンラインは、週刊アサヒ芸能 2019年 10/3号近衛文麿内閣総理大臣東条英機小林吉弥社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
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