歴代総理の胆力「東条英機」(2)夫妻303通の手紙交歓エピソード (1/2ページ)
退陣後の東条は、東京・世田谷の自宅に引きこもる日々を過ごし、終戦の玉音放送もこの自宅のラジオで聴いた。
昭和20(1945)年9月11日夕方、戦犯としての東条の逮捕のためGHQ(連合国軍総司令部)のMPの一団が自宅に到着すると、東条はそれを自ら確認するようにいったん窓から顔を見せ、間もなく室内に消えた。ピストルによる自死を図ったのは、それからわずか数分後であった。
しかし、銃弾は心臓をわずかにそれたことで、致命傷とはならなかった。終戦の玉音放送を聴いたあと、東条は自宅近くの知り合いの医師を訪れ、心臓の正確な位置を確かめてもいたのだったが。結局、横浜の米軍病院に搬送され、一命は取りとめた。
それから約3年後の昭和23(1948)年12月23日、28人のA級戦犯のうち、東条ら7人に絞首刑が執行された。21年5月3日から始まった極東国際軍事裁判は23年11月12日にこの判決を言い渡したものだった。判決から、わずか1カ月余の執行だったのである。
死刑判決を受けての巣鴨拘置所での収監中、それまでとりわけ趣味のなかった東条だったが、和歌、俳句づくりにいそしんだ。「苔(こけ)の下 またるる菊の 花盛り」との一句が遺っている。
加えれば、東条の辞世の歌は、無念と悔恨のにじんだものであった。
「我行くも また此の土地に帰り来ん 国に報ゆることの足らねば」
最後に、東条とその妻・カツ子とのエピソードを一つ。
女遊びもせず、酒も飲まず、趣味もとくになかった東条の私生活だったが、夫婦仲も極めてよかった。
陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学校、そして、陸軍次官までのぼり詰めた陸軍一筋の前半生だったが、この間の35歳から3年2カ月間、ドイツ駐在をしている。
驚くべきことに、この間の東条とカツ子は、ドイツと東京の間でじつに303通の手紙を交わしていた。東条が144通、カツ子が159通出している。几帳面な性格だった東条は、今回が何回目かが分かるように、キチンと通し番号を打っていたことで、それが確認されている。ドイツと東京、当時は出した手紙が届くのに約2カ月を要した。ために返事のないうちにまたのやりとりとなり、夫婦の情愛ぶりが知れたのである。