3ヶ月ものサバイバル生活!江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【二】
前回のあらすじ
紀州のみかん商人・長右衛門(ちょうゑもん)は江戸にみかんを出荷するべく出航しますが、寛文十1670年1月6日、遠州灘で遭難・漂流してしまいます。
備蓄の食糧は底を尽き、積み荷のみかんと釣った魚を食べて命をつなぐ心細い日々……果たして長右衛門ら7名に、どんな運命が待ち受けているのでしょうか。
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3ヶ月ものサバイバル生活!江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【一】 絶海の果てに島を発見!歓喜の上陸……さて、漂流から約1か月半が経過した寛文十1670年2月20日。
「おい!みんな起きろ!島だ!島が見えたぞ!」
見張りに立っていた船頭の勘左衛門(かんざゑもん)が、声を限りに叫びました。
「おぉっ……!」
最早みかんも食い尽くし、魚も釣れたり釣れなかったり、何も口に出来ない日も多くなってきた一同は、絶望から一転、誰もが希望を取り戻しました。
「よし、上陸(あが)ろうぜ!」
とるものもとりあえず錨を下ろし、伝馬船(てんません。上陸や脱出に用いる小型ボート)を出して様子を見ることになりました。
「……誰が残る?」
みんな一刻も早く陸地を踏みしめたい思いに駆られ、もうボロボロで、いつ沈むとも判らない船の中で留守番などまっぴらごめんです。
さりとて、船を無人にしては流されてしまうリスクもある……さんざん悩んだ結果、流されたら流された時だと覚悟して、7人全員で上陸することにしました。
船を座礁しないギリギリまで浜辺に近づけて錨泊、それぞれ大事な品だけ持ち出して伝馬船に乗り込むと、一目散に陸地目がけて漕ぎ出します。
「いやぁ、伝馬船を焚きつけにしなくて良かったのぉ(笑)」
「生で魚を食って、腹を壊したのも無駄じゃアなかったわい(笑)」
「ほれ、喋ってばかりおらんで早う漕げ、もっと漕げ(笑)」
みるみる陸地が近づくにつれ、誰もが笑顔と活力に満ちあふれていき、とうとう長右衛門たちは島への上陸を果たしたのでした。
この島は後に「母島(ははじま)」と呼ばれる小笠原諸島の一つですが、彼らにとってはまさに慈母に抱かれたような愛情を全身に感じていたことでしょう。
船頭の使命を全うし、勘左衛門が逝く「ばんざーい!」「良かった、良かった……」
伝馬船をしっかりと係留した長右衛門らは、生きて再び地上に降り立った喜びを分かち合います。
「船に残した荷物も気になるけど、今日のところはゆっくり休んで後のことは明日にしよう」
とりあえず今夜のねぐらを探していると、湧き水を発見。これまでみかんや釣った魚だけで渇きをしのいでいた一同は、これまた大歓喜です。
「やったぁ!夢にまで見た真水だぁ!」
心ゆくまで全身を潤した一同は、満足してその場に野営しますが、翌2月21日、目が覚めてみると勘左衛門が息を引き取っていました。
「……親方……」
死因は長い漂流生活による過労の蓄積と、冬の寒さによる低体温症と推測されます。
何より漂流中、自分の船に乗り組んだ者たちを案じた心労も重なったことでしょう。再び上陸できた安堵感から、どっと力が抜けてしまったのかも知れません。
そして浜辺に出てみると、悪いことは重なるもので、錨泊しておいた船が昨夜の波風に耐えかね、ボロボロになって沈んでいました。
あと一日漂流を続けていたら、長右衛門たちは悲惨な末路を辿っていたでしょう。あるいはもしかしたら「みんなを陸地に届けるまでは」と気を張っていた勘左衛門の想いに、船が応えてくれたのかも知れません。
しかしそんな感傷に浸る間もなく、長右衛門ら6名には、生き残るため更なる試練が待ち構えているのでした。
【続く】
※参考文献:田中弘之『幕末の小笠原―欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』中公新書、1997年10月
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