日本の豊かな海の恩恵は漂流のおかげ!?江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【完】 (4/5ページ)

Japaaan

現代なら講演依頼や体験記の出版など、ビジネスチャンスを広げる機会もあったでしょうが、自己PRにはとんと疎かったのか、やがて長右衛門たちは世に知られることなく、静かに世を去ったのでした。

エピローグ

さて、幕府は延宝三1675年4月に島谷市左衛門(しまや いちざゑもん)を長とする調査団32名を派遣。調査船・富国寿丸に乗り組み、長右衛門らが流れ着いた島々を探索したところ、果たしてその証言通りに発見できました。

上陸した市左衛門らが現地を調査すると、かつて長右衛門らが暮らした住居の跡や勘左衛門の墓をはじめ、地形なども次々と符合します。

島谷市左衛門らの調査によって作成されたとされる「無人島図」本光寺蔵

その後、島々の地図や海図の作成、測量などを実施した後に祠を祀り(御祭神は不明)、これらの島々が日本国領土である旨を示した石碑を建立。日本国の地図に「無人島(ぶにんじま)」と書き加えられました。

後にこの島々を巡って小笠原貞頼の子孫を自称する浪人・小笠原貞任(おがさわら さだとう)が訴えを起こして世間の注目を集めたため、島々は「小笠原諸島」と呼ばれるようになりましたが、長右衛門たちがもっとPR出来ていたら、ひょっとすると「長右衛門諸島」「勘左衛門諸島」などと呼ばれていたかも知れませんね。

「日本の豊かな海の恩恵は漂流のおかげ!?江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【完】」のページです。デイリーニュースオンラインは、長右衛門漂流記小笠原諸島江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る