歴代総理の胆力「幣原喜重郎」(1)「軍人は政治に関与すべからず」の信念 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「幣原喜重郎」(1)「軍人は政治に関与すべからず」の信念

 昭和20(1945)年8月17日、終戦への道筋をつけて退陣した鈴木貫太郎総理のあとは、占領軍を迎えるという未曽有の事態を円滑に進めるため、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が就任した。日本初の皇族総理である。すでに、昭和天皇は「ポツダム宣言」を受諾することを国民に伝えたが、軍部の一部にはこの“降伏決定”に反発があった。これに対し、天皇につながる皇族であれば、こうした反発あるいは暴走を抑えられるとし、昭和天皇の強い要請により就任したということだった。

 しかし、東久邇宮は戦後処理に尽力したものの、GHQ(連合国軍総司令部)から治安維持法の廃止や自由化・民主化の推進などを強く求められたことで、「今後は米英をより知る人が内閣を組織、連合国と密接な関係のもとに政治を行うのが適当」とし、内閣を総辞職したのだった。総理在任はわずか54日、歴代総理最短である。

 その東久邇宮による「米英をよく知る人」として後継を委ねられたのが、戦前の日本外交で米英協調路線、国際協調主義を主張、「幣原外交」で知られた幣原喜重郎であった。

 その幣原は戦前の加藤高明(第1次)、若槻礼次郎(第1次、第2次)、浜口雄幸の4内閣で通算5年半も外相を務めた。とくに第2次若槻内閣で勃発した満州事変では、軍部の意に反して「戦争の不拡大方針」を国連で表明、一方で中国に対しても「内政不干渉」という外交姿勢を示し、わが国に対する国際世論の反発を鎮めるべくの努力を惜しまなかったものだった。

 そうした「幣原外交」の真髄は「外交の目標は、国際間の共存共栄にある。ために2×2は4であり、8になってはいけない」といった言葉に表れている。すなわち、慎重、手堅さ、それを支えた徹底した平和主義というバックボーンであった。のちに総理になった芦田均は、「幣原の外交官としての識見、力量は、陸奥宗光、小村寿太郎級」との高い評価を与えたのだった。

 さて、戦前にすでに政界から身を引いていた幣原を総理候補に強く推したのは、じつは幣原が退陣したあとを受けて総理になる吉田茂であった。吉田は幣原が外相時代、部下として次官を務めた幣原共々の米英協調路線派で、GHQ最高司令官のマッカーサーに「幣原総理」の了解を求めにも行っている。

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