DNO  > 社会

 > 死にはいろいろな死がある。

 > 4ページ目

死にはいろいろな死がある。 (4/5ページ)

心に残る家族葬



■廃墟は死んでいるのか

デーケンの話に戻るが、彼は、自分を卑下しがちな我々に対し、どのようなときも自分を「役に立たない人間だ」と思うべきではない。歳を重ねていること、病気であることなどは、人生の一歩先を歩んでいること、すなわち、忌むべきことではなく、むしろ貴重な体験であり、時に他者や社会のために役立てることもできる。それゆえ我々は最期の瞬間まで、何かをすることができる存在であると、励ましてくれている。

…ということなら、今回取り上げた葛飾区の「地球釜」も、東大和市の「旧日立航空機株式会社変電所」のみならず、全国各地に及んだ、戦争時の空襲、または地震や台風などの自然災害、或いは戦後の高度経済成長期に声高に叫ばれた「日本列島改造論」がさかんだった時代、バブル経済の狂乱期、そしてここ最近の「地域おこしブーム」など、時代時代に訪れた大規模な地域開発の荒波を乗り越え、今なお残る、これらのような、主に明治以降の日本の近代化を物語る遺物もまた、「役に立たない」ものではなく、現代の我々に向けて、当時の様子を静かに、時に熱く語りかけてくれる存在でもある。

■最後に…

「使われている」という点においては、確かに「肉体的な死」を遂げてしまったものであっても、「文化的」「社会的」には今なお「生きている」。しかも、我々が「廃墟」に対して、「ローマ帝国」「中世のカトリック教会」「戦国武将の居城」同様のロマンや愛着を感じ、または戦争の悲惨さなどを思い浮かべることがあったとすれば、その「廃墟」は「心理的」にも「生きている」のである。もちろん、「モノ」であるそうした「廃墟」は「人」と違って、「心」を持っていない。しかし、それが現役で稼働していた当時、その「モノ」と共に、同じ時を過ごしていた人々の大半は、今はこの世にいない。目には見えないものの、かつては確実に存在し、忙しく動き回り、声高にしゃべり、あれこれと悩んだり、喜んだり、笑ったり、様々な考えを巡らせていた多くの人々を偲ぶ、或いは、そうした人々へ思いをはせるためにも、その「目印」としての「廃墟」は、なくてはならないものである。決して、「怖くて汚い」だけの「過去の遺物」「産業廃棄物」ではないと筆者は強く思う。
「死にはいろいろな死がある。」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る