目力ハンパなさそう!「日本書紀」に登場する豪族・物部目の武勇伝を紹介【上】 (2/3ページ)

Japaaan

伊勢国で叛乱を起こした朝日郎の征伐に

物部目は物部伊莒弗(もののべの いこふつ)の子として生まれ、雄略天皇(※3)が即位した安康天皇三457年11月13日、天皇陛下の政治を補佐する大連(おおむらじ)の姓(かばね)を賜ります。

雄略天皇。Wikipediaより。

穏和な性格と公正な態度で、時に「大悪天皇」とも言われた気性の激しい雄略天皇をよくなだめましたが、決して文弱に偏ることなく、醜の御楯(※4)として武勇にも優れていました。

雄略天皇十八474年8月、伊勢国(現:三重県)で起きた朝日郎(あさけの いらつこ)の叛乱を討伐するため、雄略天皇は物部宿禰菟代(もののべのすくね うしろ)を総大将、物部目を副将に軍勢を派遣しました。

朝日郎は「官軍何するものぞ」と伊賀国にある青墓(現:三重県伊賀市、御墓山古墳と推定)まで進軍、そこに立て籠もって迎え撃ちます。

「そなたらに勝ち目はない……降伏すれば命だけは……」

お決まりの和平交渉があっさり決裂すると戦闘開始、数に勝る官軍の圧勝かと思いきや、朝日郎は弓の名手。

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