鎌倉幕府を陰で牛耳った実力者!平頼綱「恐怖政治」と「気になる姿」 (2/3ページ)

日刊大衆

 つまり、武家政権は「平清盛→源頼朝→北条義時」と変遷し、その後、平氏の北条に代わって源氏の足利尊氏が新たな幕府を興すと、戦国時代に「源平政権交代論」が盛んになり、室町幕府の一五代将軍足利義昭を京から追放した織田信長が平氏を称した。

 それはともかく、義時の時代に執権政治の時代が始まったわけだが、これもやがては事実上の名誉職になる。では誰が鎌倉幕府を動かしたのか。執権政治を確立させた義時の法名は「徳宗(得宗)」で、その直系である北条氏の惣領家を得宗家と呼び、九代執権である前述の貞時の時代から鎌倉幕府が滅びるまでの政治を「得宗専制」という。そして、その体制を誕生させたのが貞時の父である北条時宗。

 当時、モンゴルが日本に来襲するという未曽有の国難(元寇)を前に、権力を集中させて即断即決で事態の処理に当たる必要があった。そこで時宗は、少人数の寄合を開き、重要案件を処理。鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』に「深秘の御沙汰」などと記載された通り、要は密室で専制政治が行われた。

■権力者である頼綱は「興ざめする」容姿!?

 実際、寄合のメンバーはわずか五人で、うち、主要な安達泰盛と平頼綱は、前者が時宗の妻の兄という立場だった有力御家人である一方、後者は得宗家の家政機関である公文所の執事(長官)。内管領、御内人とも呼ばれ、次の当主となる貞時の乳母の夫という立場に過ぎなかった。

 その頼綱は祖父の盛綱が得宗家初代である義時に仕えた得宗家累代の家臣。先祖は平清盛の孫である資盛と称しているようだが、事実とは考えづらい。のちに頼綱の一族は長崎氏と称し、これが北条氏発祥の地と同じ伊豆国田方郡の地名であることから、もともとは北条一族で、早い時点で得宗家の家臣になったものとみられる。

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