絶体絶命!賊徒に襲撃された清少納言が裸体をさらけ出し…どうなった?【上】 (2/4ページ)
【意訳】あぁ言うインテリ気取りで浮わついた人は、ロクな死に方しないでしょうよ!
賢すぎる女性は不幸な末路をたどる……そんな周囲の願望(ニーズ)?に応えてか、後世の説話集には、清少納言が晩年に落ちぶれるという(根も葉もない)エピソードが氾濫。
今回はそんな一つ、清少納言の危機一髪エピソードを紹介したいと思います。
兄・清監が暗殺される時は平安、寛仁元1017年3月11日、京都は六角通富小路(現:京都市中京区)のある屋敷に賊徒20余名が乱入、そこの主人である「清監(せいげん)」こと清原太宰少監致信(きよはらのだざいしょうげん むねのぶ)が斬殺される事件が起こりました。
この清監は「三十六歌仙」の一人として有名な清原元輔(きよはらの もとすけ)の息子で、清少納言の兄に当たる人物。武人として名高い藤原保昌(ふじわらの やすまさ)の郎党として仕えていました。
事の発端は主君・保昌が国司として大和国(現:奈良県)を治めていた長和二1013年ごろ、国内の利権を巡って保昌の甥(妹婿の子)に当たる源頼親(みなもとの よりちか)と対立。