歴代総理の胆力「福田赳夫」(1)「天がこの福田を要求するときが必ず来る」 (2/2ページ)

アサ芸プラス

 総裁選は案の定、福田の負けである。その敗戦を受けての福田のセリフが、「天がこの福田を要求するときが必ず来る」という“嘆息”だった。

 勝った田中は、その後、不明瞭な女性・金脈問題から約2年で退陣を余儀なくされ、政権は自民党副総裁の椎名悦三郎による「裁定」によるものとなった。本来なら田中と争った福田に政権が回ってもおかしくなかったが、ここでも「王道」志向により、三木武夫に政権をさらわれた格好だった。

 その福田がようやく天下を取ったのは、三木政権が党内抗争にキリキリ舞いをさせられ、退陣せざるを得なかった昭和51(1976)年12月である。時に、福田71歳、いささか“遅すぎた総理の誕生”であった。

 福田内閣はその発足に際し、福田が初閣議で「(この内閣は)さあ働こう内閣だ」と号令したこともあり、ヤル気十分なスタートと言えた。ソ連(現・ロシア)との排他的経済水域(EEZ)200カイリ問題を解決、それまで動きのとれなかった成田国際空港をスタートさせ、そのうえで「日中平和友好条約」に調印、締結を果たしたなどである。

 ちなみに、福田は長く“台湾派”とされていたが、佐藤内閣後期の外務大臣時代、密かに中国とパイプを佐藤派の実力者・保利茂の力を借り、「保利書簡」を中国に送るなどで、政権を取ったあとの中国との交流への意欲も窺えたのだった。

■福田赳夫の略歴

明治38(1905)年1月14日、群馬県生まれ。大蔵省入省。「昭電疑獄」に連座して退官。昭和27(1952)年10月、無所属で衆議院議員初当選。昭和51(1976)年12月、福田内閣組織。総理就任時71歳。退陣は、総裁選予備選で敗れたため。平成7(1995)年7月5日、90歳で死去。

総理大臣歴:第67代 1976年12月24日~1978年12月7日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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