歴代総理の胆力「福田赳夫」(1)「天がこの福田を要求するときが必ず来る」 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「福田赳夫」(1)「天がこの福田を要求するときが必ず来る」

 戦後の大蔵省(現・財務省)史をくくってみると、飛び切りの秀才はどうやらこの福田赳夫と宮澤喜一の二人となりそうだ。同省関係者で、それを否定する者もほとんどいない。

 その頭脳明晰な福田のトップリーダーへの道は、徹底した「王道」志向であった。政界入り後も、この世界が生き馬の目を抜く権力抗争の場であっても、権謀術策すなわち「覇道」への意欲を一切、持たなかったのが特徴的であった。言うならば、天下人としては、常に「待ち」が先行する“異色”と言えた。

 福田は、次官を目の前にした主計局長時代、「昭電疑獄」に連座して退官を余儀なくされ、昭和27(1952)年の総選挙に出馬、当選を果たした。

 大蔵省時代の福田は、昭和初期の高橋是清政権下で陸軍担当の主計官をやっているが、予算で軍部と激しく渡り合い、すでに度胸のよさも省内外に知れ渡っていたのだった。

 政界入り後は、これも商工省時代、稀代のキレ者、秀才と謳われた岸信介率いる岸派に入り、岸の信任厚く池田(勇人)政権下では自民党政調会長の重責に推されている。しかし、自ら「財政通」と認じ気骨では誰にも負けぬ福田は池田の経済・財政政策をよしとせず、このポストを捨てて「党風刷新連盟」を結成、同志とともに反池田勢力の立場を取った。岸が退陣したあとは岸派を継承、福田派を旗揚げしている。

 その池田が退陣、政権が岸信介の実弟である佐藤栄作に移ると佐藤に接近、佐藤派最高幹部の田中角栄ともども、福田派を率いる福田は「外様」的立ち位置で7年8カ月に及んだ佐藤長期政権を支えた。

 その佐藤は「沖縄返還」を花道に昭和47(1972)年6月、退陣表明、福田は7月の自民党総裁選で田中角栄との“宿命の対決”「角福戦争」に臨むことになる。ところが、「王道」志向を崩さぬ福田は、一敗地に塗(まみ)れることになったのである。

 敗因は、大きく二つあった。一つは、戦後から続く官僚出身者の政権に、世論はもとより自民党内にも批判が芽生えていたが、ここを甘く見たこと。二つは、佐藤が官僚出身の自分に政権の「禅譲」があるだろうとの期待感から、総裁選での支持勢力拡大に甘さがあったことだった。一方の田中が、支持勢力拡大戦略を描き、死力を尽くしての権力抗争に挑んでいるのとはあまりに対照的であった。

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