歴代総理の胆力「鈴木善幸」(1)「ゼンコー・フー(善幸って何者)?」 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「鈴木善幸」(1)「ゼンコー・フー(善幸って何者)?」

 大平派最高幹部の鈴木善幸が、派閥領袖(りょうしゅう)の大平正芳の急逝により総理のイスにすわったのは、ロッキード事件にもまれ、なお影響力温存を窺った時の最大派閥の領袖、田中角栄の意向によるものだった。

 田中と鈴木は、昭和22(1947)年4月の戦後2回目、新憲法下での初の総選挙で同じく初当選を果たした。以来、派閥は違ったが政治家としての交流は長く、田中政権時代には「現住所・大平派、本籍・田中派」などと言われるくらい意思の疎通は密であった。田中にとっては、影響力を残すにはこれ以上ない政権ということでもあった。

 しかし、鈴木は手堅さはあったが、それまで閣僚として強い存在感を発揮したことはなく、もとより総理・総裁候補として取り沙汰されたこともまったくなかっただけに、国内外の反応は「ゼンコー・フー(善幸って何者)?」というものであった。

 そのうえで、何より総理のお鉢が回ってきたことで最も驚いたのが鈴木自身で、元々、トップリーダーたる自覚もなかったことから、昭和55(1980)年7月、自民党総裁に選ばれた直後の同党両院議員総会では、こんな就任の挨拶をしたものだった。

「もとより、私は総裁としての力量に欠けることは、十分、自覚しております。(中略)しかし幸い、わが党は多彩な人材多数を擁しております。これらの人たちに十分、力量を発揮して頂き、私の足らざるところを補って頂ければ、これまで以上の党運営を期することができるのであります」

 つまり、トップリーダーとしての経綸、抱負は乏しいことを自ら明らかにしたものであった。そのうえで、政権のスローガンとして「和の政治」を掲げ“増税なき財政再建”を実行可能ならしめるための「行政改革」を公約とした。鈴木はそれに、「政治生命をかける」とまで言い切ったのだった。

 しかし、政権運営はさんざんであった。内政は、例えば昭和56年度予算は大蔵省のペースに抗し切れず、結果として増税を是認するしかなかった。また、防衛費増強を米国に強要されると、こちらは抵抗なく押し切られている。

「歴代総理の胆力「鈴木善幸」(1)「ゼンコー・フー(善幸って何者)?」」のページです。デイリーニュースオンラインは、週刊アサヒ芸能 2020年 4/2号大平正芳内閣総理大臣小林吉弥田中角栄社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
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