田中角栄「怒涛の戦後史」(25)元通産省事務次官・小長啓一(上) (1/3ページ)

週刊実話

 昭和46(1971)年7月、田中角栄は第3次佐藤(栄作)改造内閣で通産大臣に就任した。時に、長期政権を敷いた佐藤首相は、翌年に決まっている悲願の「沖縄返還」をもって退陣という見方が定着していた。一方では佐藤退陣を待っての、田中の総裁選出馬も取り沙汰されていたのだった。

 小長啓一との「運命の出会い」は、その通産大臣に就任してからであった。あえて運命の出会いとするのは、その後の首相就任時、国民から「今太閤」「庶民宰相」と歓呼の声で迎えられた大きな要因に、田中が「日本列島改造論」という雄大な構想を披歴したことがあったが、この改造論をまとめるにあたって、小長の存在が不可欠だったからである。

 官僚としての小長の政治家・田中角栄への心酔と、身を惜しまぬ尽力がなければ、あのような形でインパクトのある“作品”が発表できたか分からなかったのである。

「田中通産大臣」が決定した日、通産省からの大臣秘書官に推された小長は、人事担当責任者である官房長と共に、首相官邸にいた田中にあいさつに向かった。官房長が言った。

「通産省と致しましては企業局立地指導課長の小長を、秘書官として推薦させていただきたいと思います」

 田中は、「分かった。君らが決めたことに異存なしだ。よろしく頼む」と言った。

 それから10日ほどたったとき、田中が小長にこんな話を語りかけた。
「小長君。君の生まれはどこかね」
「岡山県でございます」
 そして、続けた。

「岡山か。温暖な気候の岡山の人にとっては、雪はロマンの世界だよな。川端康成の『雪国』のように、トンネルを抜けたら銀世界、それを窓外にしながら酒を楽しむ。まあ、そんなイメージだろう。

 だがな、新潟県人の俺にとって雪は生活との戦いなんだ。俺が地方分権や一極集中を排除しなきゃいかんと言っている発想の原点は、まさにそこなんだよ」

 すでに田中は、幹事長や大蔵大臣を歴任し、押しも押されもせぬ大物政治家だった。その大物政治家が問わず語りに漏らしたこの言葉を、小長は次のように受け取ったと述べている。

「ズッシリと響いた。これは生半可な仕事をしていては、とても田中さんの秘書官は務まらないと思った。

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