江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】 (1/3ページ)

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江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】

天下の徳川家にあって将軍家に次ぐ家格を有する御三家。その筆頭である尾張徳川家は、名家でありながら自家からの将軍輩出は叶わなかった。今回は【その1】に引き続き、尾張徳川家の歴史をご紹介する。

前回の記事

江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その1】

2度の将軍擁立失敗

家康直系の子孫は4代家継で途絶えた。その後7代将軍の家継までは2代将軍秀忠および3代将軍家光親子の血筋を繋ぐが、家継が1716年に8歳で早世したためその血縁も途絶えてしまう。

7代将軍決定の際、尾張徳川家は最初の将軍輩出機会を得る。将軍職にあった6代将軍「徳川家宣」は尾張徳川家4代藩主の「徳川吉通」を7代将軍に推したのだ。しかし、側近の反対によって結果的に実子である家継を擁立した経緯があった。

家継亡き後、尾張徳川家6代藩主の「徳川継友」が7代将軍徳川家継の後継者候補に上がったことにより、尾張徳川家には再び将軍擁立の機会が巡ってくる。

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