徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【前編】 (1/2ページ)
1590年。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は20万の大軍勢で小田原城に迫った。後に「小田原征伐」と呼ばれるこの戦役は、北条氏4代目当主である「北条氏政(ほうじょううじまさ)」との対立が一つの要因と考えられている。
今回は、天下人・豊臣秀吉に最後まで抗った男、北条氏政の生き様をご紹介する。
関東の覇者「北条氏」に生まれた氏政北条氏は、戦国大名の先駆けとされる「北条早雲(ほうじょうそううん)」を始祖とすし、早雲から5代に渡って小田原を中心に関東一帯を支配した戦国大名家である。
1538年。氏政は3代目当主・氏康の次男として生まれた。長男の氏親が1552年に16歳で早世したため嫡子となった。
1554年。父の氏康は隣国である武田氏と今川氏の治める両国と同盟を結んだ(甲相駿三国同盟)ことによって甲斐国の武田信玄の娘「黄梅院(こうばいいん)」を正室に迎えた。
1559年。父から家督を譲られ北条氏4代目当主となる。
父の死と実権掌握1571年。それまで両頭体制を続けてきた父・氏康が死去。実権を掌握する。父親の代に締結された三国同盟は、1560年に駿河国の今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに揺らぎ始め、68年には瓦解している。