明智光秀は本能寺の現場にいなかった?「実行犯は重臣たち」古文書を解読 (1/3ページ)

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明智光秀は本能寺の現場にいなかった?「実行犯は重臣たち」古文書を解読

「敵は本能寺にあり!」

「……是非に及ばず!」

戦国時代、天下布武を唱えて乱世を駆け抜け、天下統一を目前にしながら明智光秀(あけち みつひで)の謀叛によって非業の死を遂げた織田信長(おだ のぶなが)。

業火に消えた信長を、光秀は見届けたのか。楊洲周延「安田作兵衛 織田信長」

いわゆる「本能寺の変」において、従来の映画やドラマ、歴史小説などでは、たいてい光秀本人が信長を襲撃、焼け落ちる本能寺を前にする描写がなされています。

しかし史料的な裏づけに乏しく「光秀が本能寺の現場にいたかどうか」について議論され続けてきましたが、最近「光秀は現場にいなかった」とする学説が提唱されたのでした。

光秀は、焼け落ちる本能寺を見ていなかった?

その根拠となる史料は江戸時代前期に加賀藩の兵学者・関屋政春(せきや まさはる。元和元・1615年生~貞享2・1686年没)が著した『乙夜之書物(いつやのかきもの)』

※乙夜とはおおむね現代の21:00~24:00を指し「寝る前のリラックスタイム」の意。

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