宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。 (1/4ページ)

心に残る家族葬

宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。

神や仏が実在するのはわからない。本当に存在するのかもしれないし、人間が弱さ故に作り出したものかもしれない。一方で神仏を信じない無神論者も常に存在している。彼らには彼らの救いがあるとしたらそれは何か。

■理性的な無神論者

現代は無神論の時代と言われるように、無神論とは宗教と相反する科学的世界観の産物のように思われている。しかし神の存在の否定が無神論なのだから、無神論は信仰=宗教から生み出されたものだといえる。宗教の歴史は無神論の歴史でもある。

無神論といっても単純ではない。例えばキリスト教社会においては理神論も無神論とされた。理神論は、世界は「神の最初の一撃」で創造されたが、その後我々には一切関わりがないとする。世界を神が創造した機械と見なし、創造後は創造主の手から離れ独自に動いていくというイメージである。世界の創造、秩序ある構造など宇宙論的な謎を解消しつつ、個人の人生や運命には関わらない科学的哲学的な神である。当然人間を教え導く聖書の神とは相容れない。また汎神論者・スピノザ(1632〜77)も無神論者とされた。汎神論は天地自然全てに神・生命が宿るという考えである。理神論が背景にあり、やはりキリスト教的な人格神を否定する立場である。

■死後を保証するのが神と考えると…

現代の我々の感覚では神の存在そのものは認める理神論は無神論ではない気もするし、汎神論も特定の人格神ではないだけで、人間を超えるモノを想像させる。いずれにしろ感情のないクールな神モデルであり「理性的無神論」といえる。科学・学問の発達による理性的な認識判断から生まれた、現代に至る科学的無神論の起源といえるだろう。

だが、神の存在意義の重要な要素として「死後の保証」を考えた時、理神論や汎神論の神はあまり役に立ちそうにない。我々には救いの手が必要である。キリスト教、イスラム教、大乗仏教が世界宗教となったのは、我々ひとりひとりを救ってくれるホットな神の存在ゆえではないだろうか。そのホットな神の手も無神論者は理性、合理性などを持って否定する。しかしそれは若さや健康な肉体あってのものではないだろうか。

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