「本能寺の変」新説発掘!「敵は本能寺にあり」と叫んだのは別人だった? (1/2ページ)

Asagei Biz

明智光秀
明智光秀

 令和3年の正月三が日明け早々、「朝日新聞」朝刊(1月4日付)に「光秀 本能寺に行かなかった?」の見出しが躍った。記事によれば、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、本能寺から8キロ南、洛外の鳥羽(京都市南区・伏見区)に控えていた。実際に本能寺を急襲したのは家臣の斎藤利三(としみつ)、明智秀満(ひでみつ)らが率いた先遣隊2000の軍勢だった、というものだ。

「えーっ、『敵は本能寺にあり』と叫んで、信長と対峙したんじゃなかったの?」と、衝撃を受けた歴史ファンも多かったに違いない。

 比較的信憑性の高い史料として知られる「信長公記(しんちょうこうき)」では、光秀に襲われた信長は殿中奥に入り「是非もなし(仕方がない)」と言って自刃したことになっている。今回発見された古文書には、信長が弓や槍をとって戦う様子や、本能寺から逃げ延びた女房から聞き取った話として、信長が畳を上げて四方に立て、4、5人の侍女に「いずれも出よ、出よ」と言って逃がしたことなども描かれているという。

 これらは、加賀藩の兵学者・関屋政春が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)の三巻本の上巻に記載されたもので、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員が詳しく読み解き、新発見したものである。

「本能寺の変」の記述は、明智軍の重臣・斎藤利三の当時数え16歳であった三男の利宗(としむね)が、甥の加賀藩士・井上清左衛門に語ったという内容を関屋が書き留めたもので、事件から87年後の1669年に成立した書物。

 歴史家の河合敦氏は、「光秀が最前線にいる必要もないので、ありうる話。実際に本能寺の変に参加した人物の証言という意味では、今後検証に値する史料」だとする。

 今回、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」などの記述を発見した萩原氏は、「週刊アサヒ芸能」の取材に、他にもいくつかの新たな発見があったと語ってくれた。

〇斎藤利三が事件前日の6月1日昼に亀山城内の数寄屋で、本能寺を討つことを知らされていた。

〇通説では、西国と京都の分岐点になる老(おい)ノ坂あたりで光秀が「敵は本能寺にあり」と全軍に謀叛の意思を伝えたことになっている。

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