東京浅草で起こった謎の殺人事件と僧侶の祟りにまつわる噂話 (1/3ページ)

心に残る家族葬

東京浅草で起こった謎の殺人事件と僧侶の祟りにまつわる噂話

オーストリアのウィーンには、死者を追悼する儀式である葬儀をテーマとした博物館、「葬儀ミュージアム」がある。そこには、葬儀にまつわる様々な文物がおよそ250点展示されているという。博物館という場所で、文化人類学や歴史学、宗教学などのアカデミックな観点、または異文化への物珍しさから見た死、そして葬儀は、必ずしも恐ろしいものには見えないかもしれない。しかし現実においては、死にまつわる恐ろしい話は数多く存在する。例えば『都新聞』が大正9年3月25、26日に報じた、東京浅草で起こった謎の殺人事件、そしてその法事にまつわる噂話がある。

■上野・寛永寺の僧侶がおでん屋に大金を預け去っていった

当時の浅草界隈で、豪勢な酒屋として知られていたK家だが、明治維新(1867〜8年)以前は、浅草寺の門前で参拝客や夜警の人々を相手にした、小商いのおでん屋だった。

ある夏のこと、おでん屋に汚い身なりの僧侶が飛び込んできた。僧侶は大きな風呂敷包みを示し、「自分が戻ってくるまで、これを預かって欲しい」と言い捨て、そのまま風のようにどこかへ去って行った。包みを開くと1000両余りの大金が入っていた。後からわかったことだが、その僧侶は上野・寛永寺の僧侶だった。

ちょうどその頃、上野戦争(1868年)が勃発し、彰義隊の落ち武者や、彼らを追尾する官軍の兵隊が入り乱れ、上野や浅草一帯は荒廃・混乱を極めていた。そうした状況から、たとえ大寺の寛永寺であっても、まとまった大金を持ち出し、一時的にどこかに隠す必要があったのだろう。

■金を使い込んだおでん屋

維新の動乱が鎮まってからも、なかなか持ち主は現れない。たとえ「自分のものではない」「預かりもの」とはいえ、目の前にいつでも手をつけられる大金が手に入ったK家では、「ちょっとぐらい…」と、その金を「拝借」し、手狭なおでん屋を広くした。副業も始めた。それに飽き足らず、とうとう思い切って商売替えをし、酒屋を開くことにした。商売は順調で、2年後には酒屋は立派な店構えとなった。

■戻ってきた僧侶は白を切られて身投げした

そこに突然、あの時同様、みすぼらしい僧侶が店先に現れ、「預けた金を受け取りに参りました」と言う。

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