幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【前編】 (2/5ページ)

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そして、1853(嘉永6)年のペリーの来航を経て、翌年に日米和親条約が締結され、約200年振りに鎖国は終焉しました。

しかし、鎖国が終わりを告げたのは、ペリー来航以前から欧米諸国による様々な働きかけがあったのです。特にロシアの動きは活発で、1792年(寛政4年)に使節として、アダム・ラクスマンが、通商の許可を求め根室を訪れます。

ラクスマンは、回船船頭の大黒屋光太夫ら6人を伴っていました。彼らは、いずれも漂流民で、ロシアに保護されていた人々です。この時幕府は、そのお礼として長崎港への入港を許可しました。

ニコライ・レザノフ(写真:Wikipedia)

【ロシア外交官が激怒】

そして、1804(文化元)年に、ロシアの外交官であるニコライ・レザノフが出島(長崎)に来航し、半年にわたり通商交渉を行いましたが、幕府は拒否したのです。

半年待たされた上、交渉を拒否されたレザノフは激怒します。そして、樺太の松前藩居留地、択捉島の幕府軍を攻撃したのです。

さらに、ロシアは実力行使に出ます。

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