幕末の志士たちを震え上がらせた新撰組!10人の組長たちの終焉【前編】 (1/3ページ)
現代にも多くのファンを持つ、幕末に活躍した新撰組。実は、新撰組の活動が幕末のたった5年間というのは意外ですよね。
今も多くの人に愛される理由の一つに、個性的な組長たちの存在があります。そこで今回は、組長たちの人物像と終焉の時をクローズアップして紹介します。
新撰組組長の人物像と終焉の時 一番隊から五番隊まで隊士達から尊敬される新撰組の組長は、隊を牽引する存在です。新撰組には10人の組長が名を連ね、京の治安維持のため日夜警護にあたりました。隊を牽引するのは並大抵のプレッシャーではなかったでしょう。そんな組長たちの終焉の時を紹介します。
沖田総司 一番隊組長沖田総司は、近藤の秘蔵っ子ともいえる存在。近藤が道場主を務める天然理心流の道場「試衛館」の塾頭でした。10代で免許皆伝。近藤らとともに浪士組として京に上り、新撰組一番隊組長に抜擢されます。剣の腕は、隊で永倉と1、2を争うほどの強さで、有名な「池田屋事件」にも参戦。隊の撃剣師範も務めていました。不逞浪士の取り締まりや隊内の粛清にも、幾度もその剣が振るわれたと言います。
沖田の終焉「池田屋事件」の際に肺結核の発作を起こしますが、その後も任務は忠実にこなしていきます。しかし、無理がたたったのでしょう。戦線離脱することも多くなり、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養しましたが、病状が悪化しそのまま静かに息を引き取りました。天才剣士の儚い27年の生涯でした。
永倉新八 二番隊組長永倉新八は、「試衛館」の食客でした。10代で神道無念流の免許皆伝。近藤らとともに浪士組として京に上ります。やはり撃剣師範として沖田と1、2を争う剣の遣い手でした。「池田屋事件」では獅子奮迅の働きをし、鳥羽伏見の戦い・甲陽鎮撫隊にも加わりました。しかし、甲陽鎮撫隊で敗走後新撰組と袂を分かち、「靖共隊(せいきょうたい)」に参加。会津まで転戦し隊を離れ、結局江戸にもどりました。
永倉新八の終焉永倉は、その後北海道の松前藩の帰藩が許され家督を相続。