裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【後編】 (1/3ページ)
前編では、薩摩藩を収めていた島津家と、もともとはその老中だった伊集院家の関係に亀裂が入るまでの経緯を説明しました。
裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】さらにこの後、両者の間の溝は深まり、ついに内乱と暗殺にまで至ります。
豊臣方にうまく使われた忠棟1595(文禄4)年に全国で太閤検地が実施されると、伊集院忠棟は大胆な「知行配分」を行います。
彼は地頭職を中心にその所領を大移動させ、自分自身は島津一族の北郷氏の領地であった庄内(都城)8万石を手に入れたのです。
ちなみに当時の島津義久・義弘への割り当ては10万石、島津征久は1万石です。
しかしこの時は「文禄の役」の最中で、島津家の重臣の多くは朝鮮に出兵中でした。その間に勝手に領地を移動させられた者も多かったそうです。
もともと、根白坂の戦いでの軍規違反の件もあります。これでは忠棟が恨まれるようになるのも無理はありません。
もっとも、そもそも忠棟がこうした大胆な知行配分を独断で行えるはずもなく、彼はあくまでも豊臣方の命令を島津領内で粛々とこなしていっただけだったとも思えるのですが……。