”備中聖人”とも呼ばれ今なお人々に愛される岡山が産んだ偉人「山田方谷」とは? (1/2ページ)

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”備中聖人”とも呼ばれ今なお人々に愛される岡山が産んだ偉人「山田方谷」とは?

歴史上、偉人と呼ばれる人はたくさんいますが、現代までその功績がたたえられ、「ぜひ大河ドラマに!」と住民に愛されている人物はそれほど多くないのではないでしょうか。

今回の記事で取り上げるのは、そんな山田方谷(やまだほうこく)という人物。地元の岡山県高梁市では、彼を大河ドラマに、という機運も高まっているようです。

山田方谷

山田方谷とは?

山田方谷(やまだほうこく)は、幕末期に備中松山藩で活躍した儒家・陽明学者です。山田家はもともと清和源氏の流れを汲む武家でしたが、方谷が生まれたころには百姓として生計を立てていました。

5歳のころから朱子学を学び、20歳になるころには藩からその優秀さを買われて武士の身分を与えられました。そして、藩校である「有終館(ゆうしゅうかん)」の筆頭教授にも抜擢。

方谷と陽明学との出会い

朱子学を学んでいた方谷ですが、29歳のときには陽明学と出会います。彼が通った塾には、幕末の傑物・佐久間象山もいました。佐久間の門下では、坂本龍馬や吉田松陰も学んでいます。そんな佐久間を、方谷はいつも議論で言い負かしていたといいます。

方谷が行った松山藩の藩政改革は?

学者として藩に尽くしていた方谷ですが、彼が45歳のときに、備中松山藩主の座に板倉勝静(いたくらかつきよ)が就くことになります。しかし、当時藩の財政は破綻寸前で、多くの借金を抱えていました。板倉は、この状況を変えようと、方谷を頼ります。

方谷は、「理財論」と「擬対策」の実践をすることで、大胆な藩政改革を成功させます。

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