絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】 (1/3ページ)

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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】

狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)。建仁寺方丈の『雲龍図』に代表されるダイナミックな作風の水墨画など多くの名作を残している。

友松は近江浅井家で重臣を勤めた武家海北家の出自で、画家として活動する傍ら生涯にわたり、その再興を目指していた。

また、本能寺の変で刑死した斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)と親友関係にあり、その遺骸を奪還した逸話で知られる武勇の人でもあった。

今回はそんな海北友松の生涯を3回にわたりお話ししよう。

海北友松と妻の妙貞。(写真:Wikipedia)

建仁寺方丈に描かれた雲竜図

1599(慶長4)年、京都最古の禅寺といわれる建仁寺の方丈・札の間内に佇む男がいた。男の前には縦2mにも及ぶ巨大な襖に描かれた二面の雲龍図がある。

北面の襖には咆哮とともに雲間から出現する龍。そして、西面の襖には待ち構えるように睨みをきかす龍。それぞれ雲を従えながら、今まさに天に昇ろうとする姿が圧倒的な迫力で描かれている。

男の近くにいた僧が尋ねた。
この龍は天下様(豊臣秀吉)を表しているのでしょうか。

男は答えず、ただじっと龍を見つめ、
これは蛟龍(こうりゅう)だ。

そう呟くと、振り返ることなく札の間を出て行った。

男の名は、海北友松(かいほうゆうしょう)。建仁寺方丈の雲龍図を描いた本人であり、この時すでに67歳という老齢に達していた。

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