隻眼・隠密・大剣豪…柳生十兵衛の生涯と数々の「伝説」の真相をさぐる【前編】 (1/3ページ)
13歳で将軍の小姓に
柳生十兵衛といえば、江戸前期に活躍した政治家でもあり剣豪でもあった人物です。
眼帯をつけているイメージで有名ですが、実際には隻眼ではなかったなど、数々の伝説に彩られた人でもあります。その足跡や伝説の真偽について、前後編に分けて探ってみましょう。
彼は慶長12(1607)年、柳生宗矩(むねのり)の長男として誕生しました。幼名は七郎で諱は三厳(みつよし)。よく知られた「十兵衛」は通称です。
父の柳生宗矩は、大和国柳生庄(奈良市柳生町)こと柳生藩の初代藩主で、徳川秀忠の兵法指南役としても知られていました。
息子の十兵衛は元和5(1619)年、13歳で徳川家光の小姓となります。
そして元和7(1621)年に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、父と共に家光の稽古の相手を務めるようになりました。
このように十兵衛は信頼も厚く、このまま順調に出世していくものと思われました。
引きこもり期間が伝説の素地にしかし、寛永3(1626)年のある日、十兵衛は家光の逆鱗に触れて蟄居を命じられ、小田原に一時預かりの身となってしまいます。
家光を怒らせた原因ははっきりしません。十兵衛は酒グセが悪く、酔うと言動が荒くなるタイプだったため、それが原因で家光の怒りに触れたのではないかというのが通説です。