「君主としては暗愚で精神疾患」は間違い。大正天皇の人となりに迫る (2/4ページ)

Japaaan

その結果、体調はさらに悪化してしまうのです。

後に有栖川宮威仁親王が教育係になり、学習よりも健康を優先すると決められたことで、大正天皇のおかれていた状況は改善されました。

激動の時代で…

さて、大正天皇は特に漢詩に興味を持ち、生涯で1367の漢詩と456首の和歌を残すなどしています。深い教養と風流人としての性格が伺われますね。

1900年には九条道孝の四女である九条節子と結婚します。結婚後は体調が快方に向かい、全国の地方巡啓を重ねました。

また日韓併合前に反日感情が高まっていた頃、皇太子として初めて韓国を訪れました。自らハングルの学習を始め、それは即位後も続いていたといいます。

そして1912年に第123代天皇として即位。大正と改元します。

1912年(大正元年)撮影(Wikipediaより)

ところが、即位後しばらくすると、再び体調が悪化しました。1914年の第一次世界大戦への参戦に、翌年の即位の礼などが続き、激務と心労から過大なストレスがあったと考えられます。また、元老の山縣有朋らとの折り合いも悪かったとも言われています。

どのような病気を患っていたかは不明ですが、アルツハイマー病パーキンソン病の一種と考えられているようです。

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