【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】 (3/6ページ)

Japaaan

一ごの大じと思ひ。家のこ郎等まで。はれらかに出たちてのぼるといへども。三とせの在京にちからつき。國にくだる時は。かちはだしにて歸しを。故う大しやう殿これをあはれませ給ひ。三とせを六月につゞめ。分に従ひ人のたつせるやうにしはいし給へば。よろこぶ事限なし。かヽる御なさけ深きお心ざしをも忘れまいらせ。こんど京がたの御かた仕らんか。又関東に。御奉公仕らんか。只今たしかに申きれと。のたまひしかば。これをうけ給はる大名小名。みなヽヽ涙を流して申けるは。心なき鳥類畜類までも、人の恩を感ぜずといふことなし。ましていはんや。人間の身として。代々厚恩をいたゞき。あに木石におなじからんや。一めいをばまいらせをくうへは。力の及ばん程は。責戦ひ。かたきのぢんを枕として。打死せんより外の事候はずと……。

※『承久軍物語』より

結論から言うと政子は演説をしておらず、大江広元(演:栗原英雄。出家して覺阿)と三善康信(演:小林隆。出家して善信)が政子の了承を得て熱弁を奮っています。

往時を思い出し、熱弁を奮う大江広元。ただしこの時点では出家している

「侍ども、確かに聞け。かつて日本国の侍は京都大番役の務めを課せられておった。畏れ多くも帝都をお守りできる誇りを胸に、一族郎党みな晴れがましく上洛したが、三年の務めを果たした後はボロボロになって帰ったものじゃ。馬は売ったか食ったか歩きで、草履もすり切れて裸足で、それはもう惨めな姿じゃった。それを憐れまれたのが、我らが鎌倉殿じゃ。

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