神の存在を論理的に証明できるか 存在論的証明とは (2/3ページ)

心に残る家族葬



神(Ω)が(A)だとしたら(B)と矛盾する。つまり神は実在する。

神が想像上の存在だとしたらペガサスと同じ。つまり現実にも存在する馬より小さいことになる。しかし神とは【それ以上大きなものが考えられないもの】だった。これは矛盾。つまり神は想像だけではなく実在する。

■言葉と論理

「証明終わり」と言われれば、なんだそれはという声が聞こえてきそうだ。そもそも想像より想像+現実の方が大きいとか、アンセルムスが勝手に言っているだけである。これはただの言葉遊びではないのか。論理的に神の存在証明に挑んでいる哲学者A・プランティンガも、この論証によって信仰を持つようになった人はほとんどいないと断言している。アンセルムスあたりから始まり、トマス・アクィナスで大成された中世スコラ哲学は、煩瑣な言葉遊びだとして実に評判の悪い哲学だ。あえて外している哲学史の本もある。

しかし、言葉、記号を駆使して抽象的思考を行うところに人間の特殊性がある。言葉遊びの究極が「紙と鉛筆」で完結できる純粋数学・論理学・理論物理学といえる。アインシュタインは「私に天体望遠鏡はいらない、これがあればいい」と胸ポケットのボールペンを指したという。実際に彼らが紙とペンで記号を駆使した「言葉遊び」通りに宇宙は運行している。そして抽象的存在の究極が「神」である。

禅は言葉や理屈を超越した「不立文字」を唱えるが、道元の主著「正法眼蔵」は膨大な量からなる哲学書であるし、空海も法然、親鸞も多大な著作を著した。日本は全能の神の概念は馴染まないが、言葉や論理を超える世界へのアプローチは行なわれてきた。そのためにはまず言葉・論理を究めることが必要だったのだろう。

真言、マントラなど古今東西の宗教は「神の名を唱えよ」と説く。それは「神」という言葉そのものに謎が隠されているという意味とも取れる。「神」の概念を持つこと自体がその存在をすでに証明しているのかもしれないのである。

■尽きることのない探究

アンセルムスの神の存在証明を簡単に概観した。詳しくは参考文献を参照されたい。一見して言葉遊びにしか思えないこの論証に多くの哲学者、神学者、論理学者が議論してきた。
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