般若心経を持ち帰り翻訳した玄奘三蔵法師の求法の旅

心に残る家族葬

般若心経を持ち帰り翻訳した玄奘三蔵法師の求法の旅

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の生まれた時代、中国史においては隋から唐へ変わる混乱期であった。多感な少年期に仏門に入った玄奘三蔵は乱れた世を救うために悩んだ。また、そのために学んでいる仏の道にも納得のいかない点がある。それは何か、知ることはできないか。悩みに悩んだ末、玄奘三蔵は仏教の真理を求め、成立間もない唐帝国の国禁を犯してまでも、インドへ求法の旅へ出る。六二九年の事だったと伝えられる。西の方、インドを目指した玄奘三蔵は、目的が達するまでは決して故国へ帰らない”不東“の精神のもと二十九歳で旅立つ。

■ナーランダー大学で学ぶ

ナーランダーは玄奘三蔵の最終目的地であった。所謂、総合佛教大学である。三十五歳から四十歳まで学生として、さらに教授として五年間を研究に没頭した。十七年に及んだインドでの修行を終え、帰国した玄奘三蔵は”大般若経“をはじめとする多くの経典の中国語訳に没頭した。その歳月は実に二十年に及んだ。この大学で学び、多くの経典を長安に持ち帰ったことにより、仏教は完全な形で中国に伝わり、朝鮮・日本・ベトナムへと広がっていった。

■三蔵とは

三蔵とは、仏教の聖典である経蔵(釈尊の教えである経を集めたもの)、律蔵(仏教徒が教えである経を集めたもの)、論蔵(経を注釈したもの)。この三蔵に精通している優れた者の事を三蔵法師という。その中で最も有名なものが玄奘三蔵である。

■偉大な僧への恩を感じる

多くの経典を持ちかえった玄奘三蔵。皇帝の庇護のもと多数の仏典を翻訳した。最も有名なものは“般若心経”である。日本において、多くの書物が記されている仏教聖典はおそらく般若心経だろう。二百六十文字からなる漢語の短い言葉の中に仏教の教えが表されている。仏教は、現に生きている人を導き救うために、悟りという、本当の現実を確かにみぬいた事実のある覚者(ブッタ)によって説かれた教えである。それは決して寺院だけにあるものではなく、日々の生活に生き生きと生きているべきもののはずである。命を懸け、人生を捧げ、不東不屈の精神で世に広めた玄奘三蔵法師。六十三歳で彼岸へと旅立たれた際、天地は色を変じ、鳥獣は哀しげに鳴いたといい、遺体は七十七日経っても少しも変わらずにいたという。葬儀には、送る人百万人、その夜墓の前に泊まる者三万人ともいわれている。青年玄奘が、大いなる目的に向かいひとり歩み続けた勇気と努力を学び、敬意を示したい。

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