北条義時に毒を盛った“のえ”が平六と共謀し…北条泰時との家督争い「伊賀氏の変」とは【鎌倉殿の13人 後伝】 (5/5ページ)

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またしても平六の裏切りが勝負を分けています。

なお、泰時は“のえ”たちに担がれた政村は不問に処しており、また謀反の存在も否定。そして嘉禄元年(1225年)7月11日に政子が亡くなると、伊賀兄弟をそれぞれ赦免しました。

表向きは功徳を積んで政子の冥福を祈るためとしていますが、泰時は承久の乱において真っ先に命を棄てた伊賀の長兄・伊賀光季(演:日笠圭)の献身に報いたかったのでしょう。

政村を助け、伊賀一族を救った泰時。後に政村は鎌倉幕府の重鎮として活躍する(イメージ)

「鎌倉に忠義を貫き、絶望的な状況下で最期まで闘い抜いた光季の一族を、このまま滅ぼしてしまうなんて許せない!」

執権の座どころか、鎌倉殿さえも害そうとしていた謀叛人に対してわずか一年で赦免とは、納得いかない御家人も少なくなかったはず。

しかしこれが実際に通っていることから、そもそも謀反というのは(伊賀一族を粛清したかった)政子の言いがかりで、その政子が亡くなったから「もういいだろう」と赦免した可能性も考えられます。

ともあれここに源頼朝(演:大泉洋)の死から20年以上にわたる御家人間抗争は幕を下ろし、泰時が生きている間はしばし(比較的)平穏な時代が訪れるのでした。

かくして不安定ながら泰平の世をもたらした俺たちの泰時。しかし彼が偉大なるゆえに、その死は間もなく動乱の火種となるのですが、その話しはまたの機会に。

※参考文献:

永井晋『鎌倉幕府の転換点『吾妻鏡』を読みなおす』NHK出版、2000年12月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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