キリストの再臨を未来ではなく現在起きつつあると説いた内村鑑三 (1/3ページ)

心に残る家族葬

キリストの再臨を未来ではなく現在起きつつあると説いた内村鑑三

浄土系仏教では臨終の際に念仏を称え極楽往生を願えば阿弥陀如来が迎えに来る「阿弥陀の来迎」が説かれている。これは臨終を迎えんとする当の本人のみに訪れる奇瑞である。これに対してキリスト教が説く「キリストの再臨」は全人類の目の前に起きるとされる奇跡である。明治のキリスト教伝道者・内村鑑三(1861〜1930)は、それが既に起こりつつある主張した。それは死者が復活することでもある。

■キリストの再臨

キリストの再臨とは、イエス・キリストがいつの日か「肉体」として、この地上に姿を顕すことである。キリストの再臨は聖書で預言されている神学上の預言で、終末の日、イエス・キリストは最後の審判を行うために再びこの世に現れる。その時、死者は復活するという。最後の審判は裁きによって天国行きと地獄行きが決まるシリアスな展開が待っている。「黙示録」にも説かれていることもあり、1970年代以降の世紀末ブームに出版された無数の人類滅亡予言本でもよく話題にされてきた。キリスト教各派は遠い未来の神話として捉えていたが、内村はこの奇跡を「いつの日か」という曖昧な時間ではなく、既に「起こりつつある」現象とした。

■内村鑑三の再臨思想

キリスト教一般では再臨は「いつか」来る未来形として認識されている。しかし内村鑑三の再臨思想は「〜しつつある」現在形として提示した。内村にとってのキリストの再臨とは遠い未来の話ではなくすでに行われており、「肉体」を纏ったキリストの出現を待つのみであるとする。つまり目に見えない形でキリストはすでに世界を覆っている。あとは見えないキリストが見える時を待つばかりだという。

内村は娘・ルツ子(1894〜1912)の死をきっかけに再臨思想に傾倒したと言われる。ルツ子は闘病生活の果てに19歳の若さでこの世を去ったが、死の直前彼女は「もう往きます」と言って息を引き取った。内村は娘のその鮮やかな死に霊魂の不滅、死とはこの世からあの世へ移行することだと確信したという。この死に方から霊魂不滅の直感に至る結びつきはよくわからないが、ルツ子の死に方は確かに見事なもので信仰の尊さが伝わる。内村も何らかの霊的な直感を受けたのではないだろうか。

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