江戸時代の流行作家・井原西鶴に浮世草子「ゴーストライター説!」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 江戸時代半ば、京や大坂で大ブームになった小説群を「浮世草子」という。巷の風俗描写をふんだんに盛り込み、娯楽性に富んだ作品の総称だ。

 その浮世草子のジャンルを切り開いたのが『好色一代男』の作者・井原西鶴。江戸時代を代表する文人でありながら、生い立ちどころか出身地さえ定まらない謎の人物でもある。

 しかも、『好色一代男』を除く作品群についてはゴーストライター説まである。

 まずは、限られた史実を拾って彼の生い立ちを追ってみよう。

 寛永一九年(1642)生まれというのも没年から遡って逆算しただけで、記録が残っているわけではない。出身地については西鶴自身が

「ふるさと難波」としているものの、実際に生まれたのは、家紋の分析などによって紀伊国中津(和歌山県日高川町)、もしくは備中国井原(岡山県井原市)といわれるようになった。いずれの場合も、その地区に井原姓の家が多い。

 父の職業も不明だ。とはいえ、彼は一五歳の頃より俳諧(後の俳句)の道に進み、二一歳でその点者(作品を優劣を判断して点をつける者)になっている。

 それだけの文化的教養を身につけることは、富裕層でなければできない。このため、祖父、もしくは父が田舎(紀州か備中)から大坂へ出て商いを始め、西鶴の時代には成功していたと考えられる。

 また、西鶴が三四歳の時に妻に先立たれ、三人の子をなしていたことは分かっており、当時、門人がそれなりにいたとしても、俳句の句集を出版してもほとんど儲けにならないため、生活は家業である商いに支えられていたと見るべきだろう。

 さらに、同時代の俳諧の点者を紹介する書物に「鑓屋町」(大阪市中央区)に住んでいたとあり、武具を商う店が多い地区だけに、家業は刀剣類を扱う店だったという説もある。

 ただし、俳諧に没頭した西鶴が家業を継いだとは考えられず、店は手代に譲り、創作活動に勤しんでいたようだ。

 井原がもともとの姓(平山だったという説もある)で西鶴は雅号。

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