関ヶ原に遅参した秀忠を許す?どうする?家康を諫めた本多正信のエピソード【どうする家康】 (1/3ページ)
戦国時代の三大遅刻と言えば諸説あるものの、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の遅参を挙げない方はいないのではないでしょうか。
時は慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わず、父・徳川家康(いえやす)は大激怒。戦さに勝ったからよいものの、もし敗れでもしていたら、日本の歴史はどれほど変わっていたでしょうか。
関ヶ原の勇士らをねぎらう家康。秀忠は遅参により不参加。月岡芳年筆
あわや勘当されそうになったところ、とりなしたのが徳川きっての謀将・本多正信(ほんだ まさのぶ)とのこと。
そこで今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、正信が家康を諫めたエピソードを紹介したいと思います。
佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……「この大たわけがっ!」
秀忠は家康率いる本軍とは別の東山道から攻め上っていたところ、真田安房守こと真田昌幸(さなだ まさゆき)が守る上田城(長野県上田市)を攻撃しました。