織田信長に追放された佐久間信盛(立川談春)の悲劇的な最期【どうする家康】 (3/4ページ)
温泉で事故死?佐久間信盛の末路
国立国会図書館 蔵『絵本石山軍記』より、追放される佐久間信盛父子の図(佐久間信盛父子天王寺対塁より追放せらる図
さて、追放された佐久間信盛。その後どうなったのでしょうか。
……八年明智光秀が讒によりて右府の勘気をかうぶり、紀伊国高野山にのがれ、のち病を癒せむがため同国十津川の温泉に浴し、十年正月二十四日彼地にをいて死す。年五十五。法名宗祐。葬地信晴におなじ。
※『寛政重脩諸家譜』巻五百三十一 平氏(良文流)佐久間
高野山へ逃れた後、病を得て十津川の温泉へ湯治に行った信盛。天正10年(1582年)1月24日に55歳でこの世を去りました。
信盛の死因については、純粋に病の悪化をはじめ事故死(足をすべらせて崖から転落)とか暗殺(他家への出奔を懸念した信長による粛清)など、諸説あると言います。
『信長公記』によると信長はその死を哀れみ、息子の佐久間信栄(のぶひで。甚九郎)を赦免しました。