【どうする家康】徳川家康の子づくり事情。たくさんの子どもが後の徳川支配を支えることになった (1/2ページ)

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【どうする家康】徳川家康の子づくり事情。たくさんの子どもが後の徳川支配を支えることになった

戦国時代は、幼児の死亡率が高く、また無事に育ったとしても、成人してから早世するケースが多かったため、男子は後継者や、その補欠として、女子は外交上の切り札となることも多く、男女どちらにせよ、子どもは多くいた方が良いという時代でした。そのような時代の中、家康は子供を産めるかを重視し、出産歴のある女性のほうを好んだようです。

この時代、武家の結婚は政略結婚が当たり前。正室ならなおさらのことで、家康の最初の正室は今川家重臣の娘、豊臣秀吉との和議の証として迎えた継室は、秀吉の妹でした。

一方、家康の側室には譜代の家の娘や新たに帰順した武将の娘が選ばれていますが、正室と違ってこちらは、割と自由が利くポジション。家康が妻に一番に求めたのは、出産、次に公私の生活両面におけるサポートでした。

これに最もよく応えたのが阿茶の局でした。彼女は、元々鋳物師の後妻でしたが、夫が代官に殺され、家康に訴え出たところを見初められて側室になったと伝えられています。甲冑に身を包み、家康と共に戦場を駆け抜け、大坂冬の陣では豊臣方との交渉にあたったそうです。

阿茶の局(雲光院)(徳川記念財団蔵)wikipediaより

世継ぎは、正室の産んだ長男にするのが、一番無難でしたが、家康の長男・信康は。甲斐武田氏との内通容疑により、廃嫡のうえ、自害してしまいました。その後、誰が家康の世継ぎになるのか、はっきりしたことがわからないまま、新しく選ばれたのは、三男の秀忠でした。

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