「肖像画の先駆者」藤原隆信の疑惑「伝源頼朝像」作者は別人説の真相 (1/4ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 日本美術史上、肖像画(「似絵」ともいう)の先駆者とされる藤原隆信。

 その名を聞いてピンとこなくても、京都の神護寺が所蔵する

「伝源頼朝像」(国宝)を描いた人といえば、かつて、それが中高の教科書の口絵などに登場したものだけに頷く読者もいるのではなかろうか。

「伝平重盛像」、「伝藤原光能像」(いずれも国宝)も隆信筆だとされ、『神護寺略記』という史料によると、それら「神護寺三像」は境内の仙洞院に掛けられていたという。

 ところが、嘉禄三年(1226)に神護寺の堂舎の名称を記載した確かな史料に仙洞院の名はなく、その後の築造と考えられる。

 一方、隆信が没したのは、その二〇年以上前の元久二年(1205)。

「神護寺三像」が仙洞院を飾るために描かれたのだとしたら、その築造年代から隆信が没したあととなり、彼の作といえなくなってくる。

 事実、現在ではこの三像の作者は隆信でないというのが通説。また、この三像を除くと、確実に彼が描いたといえる肖像画はわずかに二点のみだ。

 隆信の他にも同時代人で肖像画を描いていた画家がいたことを考えると、彼は本当に肖像画の先駆者といえるのかという疑問が湧く。その辺りの真相を探ってみよう。

 まず、隆信はどんな人なのだろうか。彼は康治元年(1142)、中流貴族の家に生まれた。

 しかし、母が権勢を極めた美福門院(鳥羽法皇の寵姫)に仕える女房だったことから出世は早く、美福門院が亡くなったあとは、その娘である八条院や後白河法皇(八条院の異母兄)に仕えた。

 父母が歌読みの上手であったことから彼も歌人として期待され、若くして歌合わせ(歌人を左右二組に分け、歌の優劣を決める遊び)などの催しに招かれるようになった。

 また、まだ幼い頃に母が再婚した相手が歌人として有名な藤原俊成。

 さらに隆信の母と俊成の間に生まれたのが定家だ。『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の選者として知られる歌人である。

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