【関ヶ原の合戦】米津正勝と小栗忠政、仲間同士での武功争いの勝者はどちらに?【どうする家康】 (1/3ページ)
時は慶長5年(1600年)9月15日。天下分け目の関ヶ原合戦では、東軍と西軍の合わせて二十万を超える大軍が激闘を繰り広げたと伝わります。
争ったのは敵味方だけではなく、仲間同士でも武功を競ったのは言うまでもありません。
今回は徳川家康に仕えた米津正勝(清右衛門)と小栗忠政(又一)のエピソードを紹介。果たして軍配はどちらに上がったのでしょうか。
意気揚々と首級を献上した清右衛門。しかし……「よっしゃあ、首を獲って参ったぞ!」
先制したのは清右衛門。前線から戻って意気揚々と敵の首級を見せつけました。
「どうじゃ又一、そなたに首が獲れるかのぅ?」
日ごろから仲の悪い二人。清右衛門の挑発を、受けない又一ではありません。
「ふん、左様な虱首(しらみくび)一つで得意げに。然らばわしは、兜首でも拾って来ようかのぅ」
そう言い放って、清右衛門と入れ替わるように前線へ駆け出していった又一。果たして首尾やいかに。
「へっ、負け惜しみを……ともあれ、さっそくこの首級を御大将(家康)の実検に献じねばのぅ」
首を持って家康の元へ参上した清右衛門。しかし家康は清右衛門の武功を褒めるどころか、厳しく叱りつけました。
「バカもん!そなたは使番(つかいばん。伝令将校)であろう。本来任務を投げ出して首の一つ二つ持ってきたところで、それが何の役に立つと思うとるのか!」
確かに敵を倒し、その首級を上げるのは戦さの花形。最も高く評価される武功には違いありません。
しかし戦さはただ戦うだけでなく、部隊間の連携や補給など、戦える状態を維持する任務がより重要となります。
家康の指示を各部隊に伝え、また前線の状況を報告する使番は、まさに家康の目や口や耳といったところ。