日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【後編】 (1/2ページ)

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日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【後編】

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日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家、教育者としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【前編】

銀座で店を出した吟香でしたが、これまた大盛況。なんと、3年後には中国に渡り、既に、精錡水の取次所を設置していた上海で、本格的な支店を出すまでに至りました。

岸田吟香(杉山栄『先駆者 岸田吟香』より)

時代はちょうど日清戦争の発生前後のこと。商業面で成功を収める傍ら、岸田は日中間の将来を考え始めたのでしょうか。

当時、中国各地に販路を拡大していた楽善堂には、ゆめを抱いて大陸に渡って来る多くの若者が集まっており、岸田は、そういった若者らの活動を支援しました。このとき支援した人物のなかには、後に日清貿易研究所や東亜同文書院の設立の中心的な役割を果たすようになる荒尾精などがいます。

1876(明治9)年には、「東京日日新聞」で、新聞史上初めての2ページ見開き広告掲載。日本で初めての清涼飲料水を「レモン水」として売り出しました。

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