上杉謙信は本当に敵に塩を送る義の武将なのか?「あの歴史偉人“裏の素顔”」 (1/2ページ)
「義」の武将といわれる上杉謙信は、敵に塩を送ったことで知られる。
永禄一〇年(1567年)ごろ、甲斐の武田信玄が駿河の今川氏真から塩留めにあった。『上杉家御年譜』によると、謙信は、海のない甲斐国の「万民の辛酸尋常にあるべからず。手段もっと浅薄なり」と氏真のその政策を批判し、逆に家臣を召して、敵の信玄へ「塩を送れ」と命じた。結果、敵国の民衆は謙信を「邪道なき大将」と称し奉ったという。
しかし、『上杉家御年譜』は、米沢藩(上杉家)の藩医で儒学者でもある人物が江戸時代の天和三年(1683年)に編纂したとされ、事件のあった永禄一〇年から一一〇余年たってから書かれた史料。当時は江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の治世で戦国の殺伐とした気風は姿を消し、儒教による道徳が重んじられていた。
実際には、氏真から塩留めを求められていたが、謙信は、当時の領国である越後から信州を経て甲斐に至る流通ルートで塩留めを行わなかったに過ぎず、「敵に塩を送った」という美談にすり替えられたのだ。
その謙信は下剋上で事実上、越後の守護となった長尾為景の四男。家督は兄・晴景が継いだものの、凡愚ゆえに越後の国人衆から見放され、謙信はその国人衆に推され、兄から長尾家当主と春日山城(新潟県上越市)の城主の座を譲られる形となった。
下剋上のならいに従えば、このとき兄・晴景を放逐してもよかったが、謙信は兄の養子として家督を継ぐという穏便策で落ちつかせた。
この温情ある措置が評判を呼び、天文二一年(1552年)には、北条氏康に関東を追われた上杉憲政(関東管領)が越後に亡命してきた。